朝は寒い。
外気が肌に触れるだけで、刺された様な感覚になる。
着物の上から羽織を羽織ってはいるけれど、糸も簡単に通り抜けていく。
この時期には珍しい雪が降った。
最後の一輪になってしまった椿の花が首を重たそうに擡げている。
嗚呼、積もってしまった雪が辛そうだ。
オレも、この椿のようなのかもしれない。
「柄じゃないんだけどねぇ・・・」
呟く。
返事は無い。
失くしてしまったものは、取り戻しようが無い。
でもどこかで期待する。
戦奉行の名が聞いて呆れる。
それはきっと一人の人間としての、浅ましい願望。
「希望が無いとは言い切りません。ですが・・・可能性は、低いと考えていてください」
弁慶の言葉が耳から離れてくれない。
いつも聞いているはずの声なのにその時は。
一体何が駄目だったのだろうか。
どうして勝手に行ってしまったのか。
考えても考えても、答えなんて出るはずが無い。
その答えは、彼女だけが知っている。
でも、それさえ・・・・
雪はいつか溶けて、水となり、土へと吸い込まれていく。
しかし、雪が溶ける前に椿の花は落ちてしまうのだろう。
「初めまして・・?」
「っ」
「どうかしましたか?何か、私したんですか?」
「・・・、オレだよ?」
「?私、あなたとお知り合いだったんですか?」
「知り、合い?」
「景時。少しいいですか?」
椿の花は落ちるときはぽたりと落ちる。
はいつの間にか居なくなっていた。
何処に行ったのか、誰も知らなかった。
だから余計に心配した。
数日後、は全身に怪我をして、虫の息の状態で源氏の兵に発見された。
帰る途中で力尽き、見つかりにくい林の中で倒れたのだろうと推測された。
薬師である弁慶がその場で出来る精一杯の応急処置を施し、そうそうに邸に戻る。
今晩が峠だ、と言われた時の気持ちはもう覚えていない。
唯、生きた心地がしなかったのだけ覚えている。
オレはの手を握り締めることしか出来なかった。
「・・・もう命に別状はありません。あとは彼女が目覚めるのを待つだけです」
ねぇ、それを聞いた時。
どれだけ安心したか、知ってる?
どれだけ涙を溢したか知ってる?
オレは君がどんな無茶をしたとか、もうそんなことどうでもよかったんだ。
まだ君がオレの側に居てくれるっていう事実だけで、胸が一杯だった。
また君の瞳がオレを映してくれる。
その愛らしい唇でオレの名前を呼んでくれる。
鈴が転がるような声がオレの耳に届く。
それだけで、よかったんだ。
本当だよ?
「初めまして・・?」
冗談じゃない。
キオクショウガイ?
キオクソウシツ?
何、それ。
愛し合っていたのに。
愛してるって、オレは君に。
愛してますって、君はオレに。
言い合ってたじゃないか。
何だよ、何なんだよ・・・・
「僕が朝薬を届けた時にはもう・・・原因が分からないので、手の施しようが無いんです」
「忘れてるんだよね・・・は。弁慶の事も九郎の事も・・・・・・・・・オレのことも」
「恐らく。全ての記憶の失くしているようでした。名前とこの場所だけは教えたのですが・・・」
「・・・・・・」
「先刻はごめんね」
「いえ、私のほうこそ・・・・」
「自己紹介が必要だったんだね。オレは梶原景時」
「(必要だったんだね・・・?)私の名前は、です」
「、ちゃんだね?」
違和感を感じた。
随分と前にちゃん付けを止めたのに、また付ける事になるなんてね。
「景時さん、先程のご様子だと、私のことを知っていらっしゃるんでしょう?」
「景時さん・・・か」
「え?」
「いや、何でもないよ。うん、君が忘れている事、全部知ってる」
「教えて、もらえませんか?」
「・・・・教えて欲しいの?」
「私、一つだけ忘れてはいけない事を忘れているような気がして・・・」
「・・・」
期待していいの?
ひょっとして、記憶を失くした君が、無意識に心にオレの存在を残しておいてくれたって。
失くしてはいけないものの中に、オレが・・・・
「それは、君に思い出して欲しいな」
「虚勢・・・」
待ってるから。
君が思い出す日まで。
無理な事を言ったものだ。
いつが思い出すかなんて分からないのに。
あの日から、半年が過ぎた。
オレ以外の源氏軍は今のに慣れてきたようだ。
弁慶も九郎も。
オレ以外の、みんなが。
オレは一ヶ月前から、に会いに行っていない。
の顔を見て、何も言わない自信なんてなかった。
何か言って、それがを傷つけてしまいそうで。
何で思い出してくれないんだ
オレは思い出すことが出来ない位の存在だったのか
オレは君を思わなかった日なんて一日もなかったのに
卑怯じゃないか
不公平じゃないか
どうして オレばかり苦しんでるんだ
に縋り付いて、声を出して、叫びながらそう言うだろう。
記憶の無いにとってそれがどれ程傷付く事になるのか想像が出来ない。
だから、会いにいけない。
会いにいってはいけない。
雪が溶けるのは何時になるんだろうね。
庭の隅に赤々しく咲く椿に一瞥し、部屋の中へと戻った。
床の軋む音と同時に、椿の花が誰にも見られず静かに沈んだ。
なんて無口なリンリーボーイ