大切な人の住んでいた世界では、その人の生まれた日を祝うのだ、と、その事実を知ったのは、つい最近。
『誕生日』と呼ぶらしいその概念も、その日を祝う習慣も無いこの世界に住むオレ達に、
異世界からやって来た彼らは、実に楽しそうに思い出話を語ってくれた。
ご馳走を食べたり、贈り物をしたり、特別に着飾ったり、家の中を装飾したり、大勢で遊んだり。
キラキラと輝く子供の頃の記憶は、過ぎた日の嬉しげな笑顔を、オレ達にも見せてくれたような気がした。
けれどその場に、その話の主役はいなかった。
だからだったのか、立案は容易に可決されてしまった。
――数日後、来たる彼女の次の『誕生日』に、皆で彼女を驚かそうと。
お陰で、早三日。
オレは悩みの渦の中にいる……。
「〜♪〜〜♪」
一点の翳りも見せない、突き抜けるような青空に、お気に入りの鼻歌は自然と零れる。
風も心地良く髪を揺らして過ぎていったから、確信が胸を弾ませた。
――今日は絶好の洗濯日和だ。
まっさらに生まれ変わった布地達を詰めた籠を抱えて、オレは空を見上げた。
まっさらな匂いが、澄んだ青空が、吹き抜ける風が、
まるで悩みの全てを取り去ってくれるかのような気がして、何だか心も身体も軽い。
朔や他の人は呆れ顔を見せる事もあるけど、
こんな日に浮かれない方がどうかしてると思うのは、やっぱりオレだけなんだろうか?
だとしたら、少し勿体無い。皆もっと、この喜びを知るべきだと思う。
…そんな事を考えながら、さぁ、今日も始めますか。
籠と共に、オレは庭の物干し場へ向かった。
「……、ちゃん?」
目的地に着いた途端、前言撤回せざるを得なくなった。
確かに、洗濯をしている間は嫌な気持ちに苛まれる事も、悩みに頭を痛める事もない。
けれど、それはいつもならの話だ。
今日は、少し、頭が痛むかもしれない。
オレの悩みと幸せの種は、すぐ傍の縁側で気持ち良さそうに転寝していた。
こんな時間だから、九郎達と鍛錬をしたり、何処かへ出掛けたりしているものだとばかり思っていた。
それが、柱に寄り掛かり、柔らかい長髪を風にサラサラと流して、微かな寝息を立てている。
今日は、気温も丁度良いし、風や陽射しも心地良い。
眠るには、正にぴったりの気候だとは思う。思うけれど…
「参ったな…」
決して、邪魔だとか言うつもりはない。
実際、洗濯物を干すのには何の支障も無い訳だから、
精々縁側から転げてしまったり怪我をしないように時々見ていてあげれば、それだけで良いんだろう。
だけれど、そういう訳じゃなく。
「…どーしたモンかな…」
とりあえず、と、洗濯物を一枚干し始めながら、思わず溜息が零れてしまう。
ちゃんの顔を見ると、忘れられない、忘れてはいけない悩みが、頭を擡げてくるのだ。
まさか自分でも、こんなに悩むとは思ってもみなかった。
多分、周囲の誰も予想さえしていないだろう。
それ程に、この些細な悩み事は、オレにとって大きいという事か。
頭がほんの少し痛む反面、胸の奥はほんのり暖かい気がする。
…とはいえ、いつまでもその暖かさに浸っている訳にもいかない。
期限まで、もうそんなに時間はないんだ。
『何が欲しい?』
その一言が言えれば、どんなに良いのかと思う。
別に言ったって構わないのだろうが、返答はいとも容易く予想が出来る。
きっと彼女は、困ったように眉を僅かに寄せながら、微笑んでこう言うんだ。
『景時さんが考えてくれた物なら、何でも嬉しいです』
自惚れでなければ、その言葉に嘘はないのだろう。
でも、それじゃダメなんだよ。ちゃん。
どうすれば、君は最高に喜んでくれるんだろう?
何をあげられたら、君の笑顔は輝くんだろう?
そればかりが、頭から離れずにぐるぐると回る。
いつだって凛々しいつもりはないけれど、時にはヘタレだとか言われるけれど。
益々情けなくなっているのは、きっと君に出逢った所為だ。
君に出逢って、オレは、胸はこんなにも暖かくなるのだと知った。
苦しめる悩みの一つ一つが、こんなにも甘いという事に気付かされた。
朔や他の誰とも違う愛しさを教えてくれた君。
『誕生日』の話を聞いた時、途端に、何でも無かった一日が、宝物に変わった。
君にとっても宝物だろうその日を、もっともっと輝かせたい。
この胸のぬくもりをくれた君に、少しでも、オレは――
「……はぁ…」
盛大な溜息が、最後の一枚を干し終えたと同時に落ちる。
何に泣きたい、って、偉そうな事ばかり並べるクセに、
結局何も出来ずにこうして無駄な日々を過ごしている自分に、だ。
カラクリを設計するのに詰まった時でも比にはならない位、
らしくもなく頭を痛めているオレの横で、休息は尚も続いているようだった。
洗濯中も何度か目配せをし、終わった今は改めてちゃんと見ているけれど、
相変わらず、愛らしく細い寝息を立てている。
違うのは、髪に一枚葉っぱが引っかかっている事位だろうか。
「ホントに、気持ち良さそうに寝てるなぁ…」
思いがけず、クスリと微笑が零れた。
こんな小さな出来事すら、可愛く思えて仕方が無い。
オレは足音を忍ばせて近付くと、そっと葉っぱを取った。
意図したつもりはなかったけれど、顔をかなり間近に寄せてしまっているのに気付く。
一瞬飛び退こうかとも思ったが、覗き込む形で視界に入った寝顔に、釘付けになってしまった。
眠る表情は、普通の女の子らしく安らかで柔らかい。
瞼が閉じられた事で、睫は普段より更に長い気もする。
白梅の花弁のように白い肌、桜の花のような薄紅が差した頬、桃のように紅い唇…――
……あ。マズイ…
さあっ、と、風が吹き抜けた。
長い髪が、視界いっぱいに流れていく。
唇に、甘く柔らかいぬくもりが、触れていた。
ゆっくり離れると、変わらない寝顔に、頭の中が一気に冷めていく感覚に襲われた。
同時に、頬が急激に熱くなっていく。
未だ冷めやらぬ熱を帯びた唇を、無意識に手で覆っていた。
濡れた洗濯物で大分冷えていた手に、掛かる自分の息が、無駄に熱い気がする。
…一体幾つなんだよ、オレ……二十七歳の反応じゃないって…
吐き出したい呻きや嘆きを何とか抑えながら、深々と項垂れた。
情けなさには自覚はあったが、まさか此処までとは、思いもしなかった。
ちゃんが眠っていて、本当に良かっ…
「大丈夫ですか?景時さん」
「って、えええ?!」
心臓と共に大きく跳ね上がると、視線は自然と地面から前方へ移される。
そこには、きょとんと少し心配そうに首を傾げる
ちゃんの姿があった。
心成しか、頬の薄紅が、ほんの僅かに濃くなっている気がする。
「ぉ…起きてたの?ちゃん」
「はい」
向けられた屈託の無い笑顔に、罪悪感が背中から覆い被さってくる。
ひょっとして、オレは、とてつもなくいけない事をしてしまったんじゃなかろうか…
とは思っても、いつから起きていたかなんて聞き出す勇気も無くて、謝る訳にもいかない。
再び、頭を抱えたくなってきた。ほんの少し、涙目になってきている気さえする。
…改めて訊こう。
本当に何歳なんだ、オレ…
そんな葛藤の最中、「クスッ」と小さな微笑が耳を擽った。
驚いて視線を戻すと、ちゃんは、口元に手を当ててクスクスと笑みを零している。
訳も分からず目を瞬かせるオレに、先刻よりも更に紅みを増した笑顔は、何とも嬉しげに言った。
「誕生日来る前に、プレゼント、貰っちゃいましたね」
――ぷれぜんと…?
意味の解るような解らないような、不思議なその言葉に、
この時オレは、ただ首を傾げるしか出来なかった。
でも、一つだけ、言える事があった。
それは、
その時の彼女の笑顔は、
今まで見たどれよりも、一番可愛くて、一番輝いていて、
一番、愛おしかった、と、いう事。
―――――――――――――――
維鈴柚架様に頂きました。
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