もう、段々日が暮れてきた。
 


御簾から薄く見える外の景色が、徐々に闇色に染まっていく。

けれど、その急速な色の変化に、来ているものは夜だけでは無いと気付いた。

特有の湿った空気が、少しずつ腕や身体に絡み付いて来るような感覚が、襲う。

小さく御簾を揺らす風が、空から香りを運んで来て、鼻の奥を擽っていった。
 






――もうすぐ、雨がやって来るんだ。

 





重くなっていく空気に、胸の奥が熱くなっていく。

春風のようにじわじわと温かくなりながら、チリリと小さく焦がされるように痛む。

心地良いだけじゃない。でも、この感覚は、例えば痛みでさえ、私に喜びをくれる。


 


あの人を想って、涙が零れそうになるなんて、何て幸せな事なんだろう?

 



身体中で表現を出来ないだけで、胸の中でこっそり想っているだけで、

きっと、今の私は、はしゃいで跳ね回っている小さい子供と、そう変わらないんだろう。

その位、胸は既に高鳴っていた。


 

彼の姿は、心配や痛みを誘うけれど、同時に、胸に温もりを与えてくれる。

 

本来、感じてはいけない筈の温もり。あってはならない筈の幸せ。

 

どうしてかは分からないけれど、何となく、そう思う。

それでも、この気持ちはきっと止まってくれない。

まだ溢れ出す事はないけれど、確実に大きくなってきている。



 

 

濡れた瞳を、長い間雨に打たれていたような表情を、想い出す度…――
 









 

 

「…え…?」






 

 

 

少し強まった風が、御簾を大きく揺らしながら、更に濃い香りを運んでくる。
 


外はもう、本物の暗闇に包まれていた。
 


木の葉の揺れる音は聞こえても、見える事はない。

星の輝きや、月の明かりが無い所為だ。厚い雲に覆われて、隠されてしまっているんだろう。

だったら、灯りを燈せば良い。


 


けれど、私の腕は灯火を点けようとはしなかった。


 


灯火器から一番遠い所で、私は蹲っていた。

膝を折り畳んで、震える自分の身体を抱きすくめる。

重さと冷たさを増していく空気が、体温を奪っていくみたいだ。

油断すれば、胸の奥にまで入り込まれて、その熱さえ攫われてしまいそうになる。

私は、必死に胸元を腕で隠した。




 

胸の中の、温かなもの。


雨に濡れた髪の毛、雫の伝う頬、哀しげな瞳。

儚くて雨音に似た声、交わした言葉。

 


全てが、今、まるで落としてしまった鏡のように、消えそうになっている。

セピア色から、更に色褪せてしまった写真みたいに、朧げにしか浮かばない。




 

髪は、どんな色だった?肌は?瞳は?

声は、どんな風に響いてた?

ねぇ、貴方は、どんな顔で、微笑んでくれていたの――?








 

 

 

トクン…と、鼓動が一つ跳ねた。

 

外で響き始めた雨音に気付いた所為じゃない。

胸を、「予感」が過ぎていったんだ。





 

私は慌てて立ち上がると、勢い良く御簾を開けた。

雨脚はそんなに強くないけれど、屋根や木の葉からは、止め処無く雫が落ちている。

辺りは、雨の香りと冷たく思い空気と、それから、雨音で満ちていた。

 


躊躇いも無く、素足で庭に下りる。

土はぬかるんでいるけれど、気になる筈も無かった。

 

だって、其処に、彼の姿を見付けていたから。

 

「季史さん!」

………っ」
 


彼が私の名前を呼んだのと同時に、私は彼にしがみ付いていた。

どの位、この雨の中に立っていたんだろう。

彼の背中で握り締めた布は、あまりに冷たかった。



…?」

 

いつものように静かで、だけど、ほんの少し戸惑った声が降ってくる。
 


間違いない。これが、彼の声だ。
 


そう思った途端、胸の奥が急激に熱くなって、喉の奥が痛くなった。

咄嗟に、ぎゅっと顔を彼の胸に埋める。

 

「季史、さん…、季史さん…」
 


溢れ出してくる涙と、降り続く雨に掻き消されそうになりながら、必死に名前を呼んだ。

一つ口にする度に、きゅっと布を握り直す。確かめるように、何度も何度も繰り返した。



 

 

すると、不意に冷たさがふわりと背中にも触れるのを感じた。
 


雨でくしゃくしゃになった顔を見せないように、視線だけで後ろを向くと、

深い藤色が、頭から私を包み込んでいた。

 

 

こんな顔は見せたくもないのに、思わず彼を見上げてしまう。

その先で、やっと色を取り戻した顔が、本当に小さくて、ささやかな微笑を浮かべていた。

雨の粒が、落ちてきては目元に当たる。何だか、その冷たさが心地良い気がした。

雫を、長い指の先がそっと拭う。
 


…。そなたが此処に居る…、この時間は、永久に…消える事は無い…」



 


だから、笑っていて欲しい――





 

 

私は、深く俯いてしまった。

今度こそ、溢れてくるのを止められそうになかった。喉の痛みが、増す。








 

 

ねぇ、季史さん。

 

消えないものなんて、一つも無いんだよ?

それは、優しいウソにしかならないよ。

 

私、知ってるんだよ。

いつかは全部、想い出になってく。

想い出も、新しい記憶達にどんどん上書きされて、

どんどん本当の形を失くしてく。




 

だって、ほら、

地面に付けた足跡だって、

雨に流されて消えていくでしょ――?







 

 

 

笑顔が作れない。

笑いたいのに、涙が邪魔して、笑い方が思い出せない。




 

 

――…違う。

地面にぽたぽたと落ちていく、これは…雨?




 

もう一度、しっかりと腕を伸ばした。そのまま、彼の背中に回す。

今度はゆっくりと、強く、冷たい藤色を抱き締めした。



『永久』と響く、貴方の声に、縋り付くように。

胸の奥深く、キツくキツく、この時間を刻み込むように。




 

 

せめて今だけでも、落ちる雨粒に、欠片さえ持って行かれないように。


 

 



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維鈴柚架様に頂きました。